昭和的なるもの =秘密の伝承儀式
高校に入学した直後の記憶である。
少し学校に慣れたような気がしてきたころ、帰宅時間近くの夕方に「1年生は〇〇教室(空き部屋)に集まれ」との上級生からのお達しかあった。
何だろうと思ってわれわれ1年生がそこへ出向いた。
そこには上級生が10人ほどおり、かすかに漂う煙草の臭いに不穏なものを感じた。
その中の一人が、「あすから上級生に廊下などで会ったら必ず挨拶をするように」と怒鳴るように言う。
ああ、そういうことかと軽く受け止めたが、反するとひどい目に遭わせることをほのめかすのであった。いわゆる秩序維持というやつか。
わが校は男子生徒が少なく、全体の2割もいない。まして地味な学校である。
私は「こんな昔めいたことを、ここでもやっているのか・・」と暗澹たる思いがした。
とりあえず承服したが、実際にこんなことを体験するとは思ってもみず、学校に来るのが憂鬱になってしまった。
その後、自分と周囲の者同士で「来年、われわれの時代にはやめよう」ということで合意したのだった。
伝統的にこの国の社会で暗黙の了解として、いわば伝承されてきたものに違いない。
習俗、というに近いのか。同時に秩序維持のベースにもなっているのだろう。
いわば不文律、秘密の伝承儀式だ。
だからこそこのシチュエーションに遭うまで知ることはないのである。
ただ、この経験は親にも教師にも言うべきことではない。
泣きつくことや相談などは「恥」であり「卑怯」であるとの共通認識がわれらの間にはあったのである。その「掟」のようなことが無意識に理解できたからである。
胸に収めていればよい。もちろん挨拶はしますよ、それが礼節というものだから。
そして次の年になった。
新入生が入ってきたが(もちろん男子生徒は少数)、そのような「洗礼」は浴びせることはやめたつもりだった。少なくとも私の仲間内では。
数日後の全校朝礼で、生徒指導担当の先生がすごい剣幕で「新入生の男子から、父兄を通じて学校に抗議があった」との由。
どうも一部の跳ね上がり連中が「伝統」を踏襲してしまったようなのだ(一説には”実力行使”までしたという)。
だが受け止める方の心性はすっかり変わっており、抗議の声が上がったというわけだ。
迷惑だったのは、自分のところにも教師から「君は関わっていないのか」という個別に査問があったことだ。
過日の仲間内の話し合いの経緯を筋道立てて説明し理解を得たが、不快このうえなしだ。
関わったもの数名は無期限停学となってしまった。
今でも形を変えて学校や会社では似たようなことが行われているだろう。
パワハラ、根性注入、過酷な研修など・・
この国の社会には、いまだ抜きがたく暗い体質が残っている。
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