幻のコーヒー店
30年ほど前に、250ccのオートバイで名古屋の友人を訪ねた。
東京から東名高速で出発したが、車体を翻弄する強風に耐えきれず沼津で一般道に降りた。時間はかかるが命の方が大事である。 静岡を過ぎたあたりだったと思う。山道の登り坂でベニヤ板に「コーヒー」とペンキで大書した店を見つけた。 ただベニヤ板を組み上げただけのような小さなバラック風の店だった。 まず店主に一声かけて外にあるトイレを借りた。 そのまま立ち去るのも義理が悪い。 店に入るとカウンターだけの簡素なつくりだった。 ホットコーヒーを注文して、中年女性の店主に尋ねた。 「ここはどこですか」。 妙な言い方だったとは思うが、顎が風圧にさらされ続けて言葉を発するのはそれだけで精一杯だったのである。 カーナビなどもちろんあるわけはなく、持ってきた地図ですら現在地をはっきり特定できず、本当に分からなかったのだ。 店主は一瞬あきれたような顔をしたが、広重が描くところの東海道五十三次の画集で見覚えのあった地名を教えてくれた。 「やれやれ、まだ名古屋は遠そうだな」と思い、オートバイにまたがった。 現在はどこへ行ってもチェーン店が多く、そんなお店はもうあまりないだろう。 今でも白い厚手のカップを見ると、その幻のようなコーヒー店のことをふと思い出す。 Original 14 feb 2016 |
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